2009/07/11

[書評] 金城 一紀 / 『フライ,ダディ,フライ』

フライ,ダディ,フライ (角川文庫) 金城 一紀 / 『フライ,ダディ,フライ』 / 2009-04-25 / 角川文庫 / D

うーん、あまりのつまらなさに途中で読むのを中断しようかと思ったくらい。 「水戸黄門」とか「ジュウレンジャー」とか「ハーレクインロマンス」といったシリーズものを思い描いてもらうといい。
平凡ながらも幸せな生活をしていた主人公。ある日、突然降り掛かる不幸。それを払いのけるために立ち上がり、とても勝ち目などないと思われた悪者に(修行して強くなった)主人公はなんとか勝ちをおさめた。悪者以外はみんな幸せになりました。めでたし、めでたし。以上。

『GO』を読んでファンになった金城一紀だけど、去年読んだ『対話編』で「おや、買いかぶりか?」という疑問が芽生え、そして本書でそれが決定的になってしまった。

念のために付け加えておくと、つまらないといっても、その読み出した瞬間に展開と結末が読めてしまい、私が読書に求めていることとは合わなかった、というだけのことです。
一般的には、純粋なエンターテイメント小説として読めば、面白い部類に入るとは思います。
ただ、あまりの予定調和ぶりにげんなりしてしまうので、エンターテイメント小説が好きといっても「読むと何か新しい世界が見える」ことを楽しむ方はやめておいた方がいいでしょう。

Amazon.co.jp: 『フライ,ダディ,フライ (角川文庫)』

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2009/06/30

[書評] 酒見 賢一 / 『陋巷に在り』

陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫) 酒見 賢一 / 『陋巷に在り〈1〉儒の巻』 / 1996-03 / 新潮文庫 / A

およそ5年ぶりの再読。いや〜よかった。
改めてこの作品が僕自身に与えた影響を思い起こした次第。
(ちなみに、しばらく本ブログの更新が滞っていた理由の一つは、このシリーズ全13巻をじっくり読みふけっていたから、です。)

主人公は孔子とその弟子、顔回。
いや、顔回とその師である孔子というべきか。

孔子とは、私たちが儒教の創始者として知っているあの孔子。
宗教としての形を整えたのは後の時代の弟子だし、果たして宗教として信仰されているのかというとそれも疑問ではあるけど、それでも孔子が始祖として認定されているのは孔子が「呪と祝を切り離し礼を整えた」人だから、というのが本書のスタンス。

呪も祝も(白川静によれば)もとは同じ行為。ただ、陰と陽、男と女、裏と表の関係にある。 渾然一体となっていたその行為や効果から、きれいな部分だけを取り出して精製し整形したのが孔子。
本書ではその過程が描かれている。
その過程が描かれるということは、つまりその過程で捨てるべしと孔子に判断されたきたない部分も描かれるということ。これがもう、本当に面白い。

呪と祝。
元旦に神社に初詣。お盆やお彼岸にお墓参り。対象は違うけど、神様やご先祖様という人ならぬものに手を合わせて祈る行為。あるいは雨乞い。あるいは願掛け。
普通の人は見えないけど、その途中経過を見たり操ったりすることができる職能集団が巫で、孔子や顔回もその一派である顔氏の出身(巫は巫女の巫。女性に限定されるものではないけど)。

孔子は巫と礼のあり方に関して「革命」が必要だと考えていた。 この同じ力の負の側面を押さえ正の側面をもっとのばさなければ行けない、と。そしてその礼の力によって中原に再び良き世の中・天下を作り出さねばなるまい、と。

呪と祝を切り分けるためにはその両方に精通している必要がある。 孔子と顔回はその最後の人だった。
呪と祝を切り離してしまったからこそ最後の人となってしまったのか、最後であることを自覚していたからこそ切り離したのか。
後者の立場に立ちつつも前者の視点を切り捨てていないのが酒見賢一のおもしろさ。裏を切り離した表が存在できないように、人の都合で片方のみを扱ったり、一方から得られるメリットだけを享受しようとしても無理が生じる、というニュアンスがにじみ出ている。うーん、深いなぁ。

聖の巻
祝の巻
といったように、13巻まである各巻にはサブタイトルがつけられている。
中扉の見開きにはその言葉について白川静の字統などから語義が引用してある。 特に、口(くち)という字を食べたりしゃべったりするくちの象形文字ではなく、サイという祝器である、という観点から古代中国の社会のあり方までを描いたところは、この扉の言葉や本書(シリーズ全体)とも世界観がぴったり一致していて面白いことこのうえなし。
逆に、私はこの扉の言葉を読んで白川静の世界を見直した次第。

全13巻はさすがに長くてたっぷりと楽しめたのだけど、それでも物語が完結しないまま終わってしまうためもっと続きを読みたい。これだけは残念。
作者曰く「この後、顔回は孔子とともに魯の国を出てしまう。当然、それまで済んでいた陋巷(スラム)を出てしまう訳だから、題名を裏切ることになる」。
まあ、雑誌の連載だったこの小説。1990年12月号から2002年5月号まで135回も続いたというのだから、打ち切りにならなかった方が僥倖というべきか。
本人も「日本人の書いた偽中国小説」という指摘についてあとがきで触れているけど、史実かどうかと関係なく、人間の真実を描いた素敵な作品と作者に感謝したい。
民族誌(エスノグラフィー)的に読んでも非常に興味深い。眉につばをつけず、現代の私たちからすると非合理でも、その社会の中では整合的な論理の一つのありかた、として楽しんでもらえたらいいなぁとも思う。

Amazon.co.jp: 『陋巷に在り シリーズ全13巻 (新潮文庫)』

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2009/06/14

[書評] 仁木 英之 / 『僕僕先生』

僕僕先生 (新潮文庫) 仁木 英之 / 『僕僕先生』 / 2009-03-28 / 新潮文庫 / B+

手にとった時、「面白そう!」という予感と「酒見賢一の劣化縮小コピーじゃない?」という予感の両方があったんだけど、嬉しいことに前者があたって後者がはずれた。

可愛い少女の格好をしているけれど、その実(じつ)、数千年は生きている仙人の僕僕先生(ぼくぼくせんせい)。
今の日本で言えばパラサイトシングル、ニートといった存在の王弁(おうべん)。
裏表紙の紹介文によれば「不老不死にも飽きた辛辣な美少女仙人と、まだ生きる意味を知らない弱気な道楽青年」ということになるんだけど、そのアニメ的な好都合すぎるだろ、という設定がうまい具合におかしみにつながっている。

見た目は美少女なんだけど、実際にはおじいさん(もしくは、おばあさん)。この恋はどこまで本物なんだろう。
(仙骨はないので)仙人にはなれないと分かっているのに修行を続ける意味なんてあるんだろうか。
仙人も、仙人ではあっても神様ではない。完璧ではない。仙人ならではの苦悩とは。

なんてことを思いつつも、それどころではない抱腹絶倒のストーリー展開に引き込まれて腹筋が引きつる。いい作品に出会えた。

『僕僕先生』を手にとると頭に浮かぶのはこの三冊。

酒見 賢一 『後宮小説』
古代中国を舞台にした少女主人公つながり。
ファンタジーノベル大賞受賞作つながりでもある。
山田 史生 『もしも老子に出会ったら』
老荘思想と少女つながり。
『僕僕先生』では少女が仙人なんだけど。
程 聖龍 『仙人入門』
仙人つながり。
でも、『僕僕先生』が描く仙人像とはかなり違う。

Amazon.co.jp: 『僕僕先生 (新潮文庫)』

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2009/05/09

[写真] 犬のみなさんへ

郡上で見つけた面白い看板です。

飼い主のみなさんへ、ではなく犬のみなさんへ、で始まってるところが何とも。

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2009/04/20

[書評] わぐりたかし / 『地団駄は島根で踏め』

地団駄は島根で踏め (光文社新書) わぐりたかし / 『地団駄は島根で踏め』 / 2009-03-17 / 光文社新書 / B+

言語執着系でうんちく大好きな私のために書かれたような本、と思って手にとったのですが、読んでみても期待に違わず楽しい本でした。

例えばタイトルになっている「地団駄を踏む」。語源があるなんて思ってもいませんでしたが、ちゃんとあるんです。
「ごり押し」にも語源がありますよ。ゴリラじゃありません。ゴリという名前の魚を捕る道具です。
「独り相撲」にも「泥棒」にも「ごたごた」にもにも、ちゃーんと語源があるんです。へぇ。それが23編もあるから読みながらニコニコ、フーンの連続でした。

著者が大好きで参考にしているというのが大槻文彦の『大言海』と聞いて心配になったんだけど(こじつけ語源が多いと言われている)、この本は「現地に行って、半径2kmではあるけど聞き込みをして、語源となったモノやコトを体験もしくは目のあたりにして、時には新たな解釈を付け加えてみる」という構成。
実に丁寧で誠実。ついでに現地ローカルグルメも紹介したりして、著者が元々は放送作家、というところがいい方向に発揮されています。 旅エッセイ好きなら国語嫌いであっても楽しめる作品に仕上がっています。

読んだら人に「ねぇねぇ、チンタラの語源って知ってる?」と聞かずにはいられなくなる本です。

Amazon.co.jp: 『地団駄は島根で踏め (光文社新書)』

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2009/04/07

[写真] John Lennon UFO

夕陽差し込む自宅のリビングです。

影の正体は天井からぶら下がっている電灯なんですが、ジョン・レノンのようにもアダムスキー型UFOにも見えるという不思議なイメージになりました。

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2009/04/05

[書評] 小川 洋子 / 『海』

海 (新潮文庫) 小川 洋子 / 『海』 / 2009-02 / 新潮社文庫 / A

素晴らしい短編集。読んでいるあいだ、ずっと、本をよむ喜びに包まれ満たされていた。

ショート・ショートといってもいいようなオチで読ませるような作品から、ありありとその場面が目に浮かぶような情景描写だけの作品、少し長めの不思議なストーリーまで、バラエティに富んだ作品が並んでいる。
そして、どれもがこれまでの小川洋子作品のエッセンスがぎゅっと詰まっていて、脳にハートに至福のシャワーを浴びせてくれる。

どれも甲乙つけ難い良作なのだけど、中でもお気に入りは「バラフライ和文タイプ事務所」。『小指の標本』や『貴婦人Aの蘇生』『沈黙博物館』といった系統につながる作品です。
若き女性の和文タイピストが、欠けた活字を持って倉庫番+活字職人を訪れてかわすエロスあふれる会話。固く乾いた活字からにじみ出る淫らな湿り気。ガチャガチャバタバタとタイプを打つ音が響き渡っている世界に訪れる静けさ。

小説の悦び。
高橋源一郎が『人に言えない習慣、罪深い愉しみ』と言い、丸谷才一が「読書は人間がベッドの上でおこなう二つの快楽のうちの一つ」と言ったあの歓び。
それを味わえる作品です。

巻末インタビューの最後にインタビューアーの北村浩子(フリーアナウンサー)がとっても的確な指摘をしているので引用しておきます。

地味な存在の人間に光を当てて書かれた小説、というと、ほのぼのと人情味あふれるテイストのものを想像するが、小川さんは、ほのぼの感も盛り込みつつ、気味の悪さや残酷さといった、どこか死を連想させる"差し色"を、量を加減しながら作品の中に必ず混ぜ込む。「死は生に含まれている。今笑っている自分のすぐ隣にも死がある」と小川さんはおっしゃっていたが、暖色一辺倒でないからこそ小川さんの作品はファンの心を惹きつける。(p.169)

Amazon.co.jp: 『海 (新潮文庫)』

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2009/03/29

[書評] 松岡 正剛 / 『白川静 漢字の世界観』

白川静 漢字の世界観 (平凡社新書) 松岡 正剛 / 『白川静 漢字の世界観』 / 2008-11-15 / 平凡社新書 / B+

白川静について、松岡正剛が熱く熱く語った本。
面白くない訳がないと思って手にとったけど、期待に違わず面白い本だった。

本書の唯一の欠点は、著者松岡正剛が興奮し過ぎてうわずっているところ。まぁ、落ち着け。

他人が語る分、わかりやすくなる点。
他人が語る分、功績が際立つ点。
他人が語る分、楽しく面白く読める点。

さすがに松岡正剛。こういう点がきっちり出ていて、最高の入門書なんじゃないかと思う。
初めて読む本としては、ご本人の手になる『漢字百話』よりもこちらのほうがおすすめ。

思いおこせば私の白川静との出会いは大学院生時代。 それまで広辞苑を引くと思っていたシーンで、先輩が『字統』を引いていたことだった。 ただ、そのときは深入りせずにへぇくらいで終わっていた。

二回目の出会いは酒見賢一の『陋巷にあり』の扉の言葉だった。

文字とは祈りであり呪であったこと。
文字とは儀礼であったこと。
文字とは世界と私たちをつなぐ架け橋であったこと。
文字とは先祖と私たちをつなぐバトンであったこと。
文字とは現実と想像をつなぎとめる紐であったこと。

表音記号ではなく表意記号のみが持つ力(ちから)。
その豊かで恐ろしい世界をかいま見せてくれる
そういった世界(の広さとあり方)に気がつかせてもらった。

著者松岡正剛は本来は私の仕事ではないと恐縮して(みせて)いるけど、最適任者だったと思う。 こういう世界に紹介・招待してくれた酒見賢一とともに感謝感謝。

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2009/03/23

[書評] 中島 たい子 / 『そろそろくる』

そろそろくる (集英社文庫) 中島 たい子 / 『そろそろくる』 / 2009-02 / 集英社文庫 / B-

本作品はPMS、Premenstrual Syndrome(月経前症候群)に振り回されるアラサー・イラストレータが主人公。

前作『漢方小説』がなかなかよかったので手にとってみたのですが、二つの点でイマイチでした。

一つは、この小説が生理についての小説だからでしょうか。男性である私は今ひとつ実感がわかないというか、小説の世界に浸れないというか、主人公に共感できないまま読み終わってしまったことです。
ただ、優れた小説は(前作『漢方小説』のように)自分の身に起きていないことでも「あぁ、そうかもしれない」と思わせてくれるので、私が男性ということばかりではないように思いますが。

そしてもう一つは、主人公の恋愛がうまくいってしまって、(大げさだけど)余韻みたいなものを少々損なってしまったこと。途中のやきもきしているあたりはとてもよかったんですが。

とはいえ、本作品もウジウジした自意識をこれでもかと描写していて、なかなかエグリのするどい小説でした。

大人になるほど色々なことができるようになるけれど、それを上手くできる人になれるかは、また別だ。リンゴの皮がむけるようになると同時に、リンゴの皮をむくのがヘタな人にもなってしまう。(p.58-59)

これこれ。こういうネガティブ思考を書かせたら中島たい子は一級です。

生理でむしゃくしゃするのも、子宮がついているのも、全部わたし。そいういう気づきと、それを引き受けていこうと少しポジティブになる主人公の再出発。そこは前作『漢方小説』と同じで新鮮さに欠けると言えば欠けるのですが、描写にはぎょっとします。

なんだか女は子宮のために生まれてきているようにさえ思えてくる。私に子宮が付いているというより、子宮に私が付いている、と言った方がよい。(p.146)

恋愛についての心理描写も、途中経過の時点ではなかなかのものです。
灯油を持ってきてくれた彼氏について。

「他に持ってくるもの、思いつかなくて」
彼は呟いた。私は彼の背中におでこをつけた。この人を、もとあった場所に返すことはもうできない。そんなこと、わかっていた。(p.61)

三作目を読みたいかと言われると微妙ですが、独自の世界を築いていることは間違いない中島たい子でした。

Amazon.co.jp: 『そろそろくる (集英社文庫)』

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「壁と卵」後日談

先日、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵」を翻訳しました。その後日談です。

まず、スピーチの現場にいたという友人が、イスラエルの新聞に載ったインタビュー(ヘブライ語)を翻訳してブログに載せています。スピーチという公的なものとはまた違った村上春樹の言葉を味わうことができます。
漂流博士 村上春樹氏イェディオット紙インタビュー

『文芸春秋』のインタビューと翻訳は立ち読みしてみました。翻訳は、格調高い感じでした。正確な翻訳であり、かつ、逐語訳すぎて読みにくいところを丁寧に取り除いた感じの正統な翻訳でした。 インタビューには「へえ、日本語のマスメディアにもこういった発言をするんだ」と軽い驚きを感じました。直接引用することはできないのですが、「正論原理主義」を乗り越えて:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japanがその趣旨をよく伝えていると思います。

盛岡市の飯坂さんは、村上春樹のスピーチに触発されて制作された作品の参考資料として私の翻訳を添えてくださいました。 (画像をクリックすると少し大きい画像が開きます)

Egg Paper Stand

翻訳をネットで探してみて、私の翻訳がいちばんわかりやすかったとのことでした。嬉しく思います。

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2009/03/15

[書評] 山田史生 / 『もしも老子に出会ったら』

もしも老子に出会ったら (光文社新書) 山田史生 / 『もしも老子に出会ったら』 / 2009-01-16 / 光文社新書 / B

正当な(正統な)老子についての解説書ではないけれど、老人と女子高生のボケつっこみトークを通してそのエッセンスに触れてみようという楽しい本。

(2009-03-20追記: 本書の雰囲気がわかるように引用を追加しました。)

老子を思わせる老人、こんな娘ぜったいにいないよというおしゃまな女子高生、陰の声として登場し解説を加える著者の三人がかけあい漫才よろしく「こんな問題に老子ならなんと答えただろうか」をおしゃべりしていく。

「おじいさんって何歳なの?」
「さあ、ざっと二千五百歳くらいだろうか」
(中略)
「ものすごく健康ってことね」
「なんのなんの。死んだものが、いちばん健康さ。もう死ぬことはないんだから」(中略)「茶化してなんぞおらん。生きるというのは、死ねばなおる病気みたいなもんだ」
「じゃあ、おじいさんは不治の病にかかってるってわけ?」
「まあ、そんなところだ」(p.13-14)

老子の言葉にはそれほど興味はなかったんだけど、それでもそこそこ楽しめたし、ありとあらゆることに逆説的に向き合うその思想・姿勢は新鮮。例えばこんなことば。 意志の弱さをつらぬく強い意志をもつとか無限小の力でやりつづける(努力しないための努力)とか。

おしむらくは、軽い言葉で書かれているために軽くしか受け取れないこと。
老子自身がどのような意図で言葉を発していたのかわからないし、入門書には常につきまとう問題だとは思う。
老子の言葉は、ありがたく奉って正座しながら読まないと失礼にあたる言葉なのか、寝転がってくすくす笑いながら読んだ方がいい言葉なのか。たぶん両方なんだと思う。
本当に本当に優れた入門書は、その両方の読み方を許容してくれる。本書は後者の読み方だけにとどまりそうな気がする。後者としての本書はよくできているけど、もうちょっと深い読み、再読、には向かない。

最後に、本書の中で一番私にヒットした箇所をご紹介しておきます。

少女 腹の足しって、生きるために食べることだったら、だれだってやってるんじゃない?
老子 腹がへる。だから食べる。それは自然だ。しかし腹が減ってもおらんのに、旨いものをたべたがるのはいけない。
少女 なぜいけないの?
老子 うむ。そこのところを議論するのは、じつをいうと意外にむつかしかったりする。
少女 おなかがすいてもいないのに、快楽をもとめて、おいしいものを食べるのが問題だというのはわかるとしても、じゃあ音楽とか美術の場合、「おなかがすく」に対応するものはなんなの? 快楽をもとめているものなんてあるのかしら?(p.138-139)

Amazon.co.jp: 『もしも老子に出会ったら (光文社新書)』

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2009/02/24

[翻訳] 村上春樹のスピーチ「壁と卵」

はじめに - 訳者からの長いまえがき

村上春樹のエルサレム賞の受賞スピーチを翻訳してみました。
理由は二つあります。
最初の、そして最大の理由は、いろいろなとこで紹介されている翻訳のどれを読んでもしっくりこなかったことです。英語を逐語訳的に翻訳しすぎていて、ちっとも村上春樹らしくないのです。
そしてもう一つは、僕の長年の大切な友人がなんと!そのスピーチの場にいて興奮を熱くあつく伝えてくれたから、です。
その思いがちょっとでも伝わればいいな、と思います。 その友人のブログも最後に紹介しておきますので、あわせて読んでみてください。

あと、もう一つ加えるとすれば、いくつかのブログで、このスピーチとスピーチについての感想も取り上げられてはいますが、日本のマスコミの偏った報道のせいで誤解を招いているんではないか、と危惧したからです。ぜひ、全文を読んでみてください。
村上春樹は、けっしてイスラエルだけを非難したわけではありません。「たとえどんなに壁が正しくても、卵を支持する」と言ったんです。
パレスチナ側からの攻撃で命を失ったイスラエル人によりそう、と言ったんです。 急いで付け加えれば、「どんな国家も支持しない」ともはっきり言っています。
村上春樹の指摘した「壁」は政府だけではないんです。本人が「それも一つの比喩ではあるけれど、もっと違うものだ」と念を押しているんですが、報道ではすっぽり抜け落ちてしまったみたいです。

じゃあ、「壁」とは何なのでしょうか。
私(訳者)は、とっても抽象的に、「私たちが正しいと思い、それに依存して思考し、他人を非難するときに使ってしまうもの」くらいの意味だと思います。
内田樹は「ことば」じゃないかと指摘していました。
宗教や文化かもしれないし、良識かもしれない。貨幣かもしれない。過去の自分(の体験)かもしれない。
スピーチを読んで考えていただければ、と思います。

授賞式にも参加したというイスラエル在住の友人に教えてもらったんですが、イスラエルは日本よりよっぽど「言論の自由」があるので、それに、政治批判はもっと激しい言葉でされるので、今回の村上春樹のスピーチも特に政治的に冷たい扱いを受けることはなく、スピーチもスタンディングオベーションや拍手の嵐だったそうです。翌日の新聞の報道も、けしからん調ではなかったとのこと。
とはいえ、村上春樹が出席を決意したのは、そういう予備知識のない状態、日本でテレビや新聞で報道されていたように「勇気あるなぁ」という状態だったと思います。

(謝辞)翻訳のチェックを快く引き受け協力してくださった皆さま、ありがとうございました。感謝します。

では、私の長い前置きはさておき、ご本人のスピーチをどうぞ。
※ なお、文中の小見出しは私(訳者)がつけたものです。

卵と壁

Always on the side of the egg
By Haruki Murakami
壁と卵
村上春樹

嘘の話

I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies.
僕は今日、小説家としてエルサレムに来ました。
つまり、嘘つきのプロとして、です。

But of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, (sorry, Mr. President), as we all know. Diplomats and military men tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the novelist as immoral for telling them. Indeed, the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics. Why should that be?
もちろん、小説家だけが嘘つきというわけではありませんよ。 みなさんもご存知の通り、政治家も嘘をつきます。(隣にいるペレス大統領に向かって)おっと、大統領に失礼ですね。 外交官や将軍たちも時々嘘をつきますし、中古車のセールスマンだって食肉業者だって建築業者だって嘘をつきます。(訳注:おそらく日本の偽装騒ぎのことを指している)
ただ、小説家の嘘はほかの人たちの嘘とは違うんです。 だれも小説家のことを嘘つき呼ばわりしませんよね。 むしろ、法螺(ほら)が大きければ大きいほど、嘘がうまければうまいほど、読者や批評家たちの評価は高くなるくらいです。
でも、なぜなんでしょう?

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